2024.12.22 Sun
関市

墨に生きる ─ 淡墨

和紙に滲み入る淡墨。水と墨のかねあいが生み出すかたち。筆が紙に触れたその一瞬に、作家の意図を超えた水の広がりによって墨に秘められた力が一気に現れる。かろやかな筆の動きが、やがて静かな水と墨の姿に変わっていく。桃紅水墨を語る上で、水をたっぷり含んだ墨─淡墨もまた重要な魅力のひとつであろう。

桃紅作品の抽象的な線とかたちは、不要と思われるものをすべて削ぎ落とすことで作られる。それは、「墨いろ」にも同様のことが言えるのかもしれない。中国の『筆法記』に「墨を用いて独り玄門を得」とあり、“玄”すなわち墨による黒は、真っ黒の一歩手前の色で、すべての色を含む万物の根源であり、ものの本質そのものをあらわすという。この世に無数の色彩があるにも拘らず、墨の玄のなかにあらゆる色を見いだす墨いろ。その色あいの豊かさ、深まりには、すべてを表現できる神秘があり、どんな色をもってしても代わることのできない表現の手だてなのだ。

渡米先で、墨と筆を使い和紙に書かれた抽象作品は、「古来の伝統的な書から、独自の想像力に富む線的な抽象形態を発展させ、その繊細で濃淡のある線は、まるで自然の樹や花や草のようだ」と評された。単なる東洋の伝統美という枠内で語られるのではなく、抽象芸術として正当に評価されたことにより桃紅は自らが生み出す新しいかたちへの大いなる確信を掴む。

しかし、桃紅が得たものは、新しい自分の表現スタイルへの自信だけではなかった。自分にとって、墨がいかに必然的なものであり、湿潤な日本の風土でのみ墨の持つ限りない魅力を引き出し生かすことができるかを再認識したのである。墨が水を得て生命を吹き返し、紙の上で自由に流れ、にじみ、墨いろが深みを増していく。それを楽しむかのように、渡米前の文字の造形性から生まれた有機的でしなやかな線が画面を大きく占めていた作品から、帰国後は、淡墨の肉太の線の重なりや広がり、にじみにたっぷりとした水気がみなぎり、わずかな筆の動きにより生まれた墨の千変万化の色彩が奏でる諧調が美しい作品へと変わってゆく。水墨の静かで細やかな動き、そのふくらみには、作家の微かな息づかいが宿り、墨の秘められたエネルギーが満ちている。

わずかな心の動きが紙面の上の水の姿となって現われる。水は作家の心を映す鏡でもある。墨が生命あるものであると悟った桃紅。比較的、濃墨が作家の意図に従うのにくらべ、水によって墨は無数の色を発し、元来かたちのない水の仕業によって、姿を変えていくのである。また、水を滴らせできた点は、自由で抵抗がない。だからこそ簡単に滴らせることができないのである。桃紅は、そんな水の扱いにくさに惹かれ、手に負えない水の動きに祈りをこめ、託す。すべての色は墨にある。が、到底作家の力の及ばない水の妙計によって、墨いろは心を映し無限の深まりを得ていくのだ。 桃紅は伝統的な書の世界を超え、ただ水墨と向き合い独自の抽象表現を探求し続けている。濃墨の凛とした存在感のある線は、桃紅その人の自分らしさを貫く姿と重なり、観るものを圧倒する。しかし、水によって色に無限の広がりをみせる淡墨にこそ、水墨の人・桃紅の心の機微を垣間見ることができるのではないだろうか。日々のくらしの中で、うつろい過ぎゆくできごとに心を寄せ、墨を磨り、筆をおろす。自然にも作意にも敏感な墨は、水を含んで思いがけない表情を見せる。それは桃紅の日々のくらしそのものとして、また心のかたち、線となって紙の上に姿を現すのだ。桃紅は書という枠組みから離れても、墨を手放すことはなかった。100歳をむかえた現在も、重なり合った淡墨の中に言葉では言い尽くせない幽玄なるものを見続けている。

《水》 STREAM / 450×1250mm / 墨、銀泥、和紙 Sumi,Silver Paint on Paper / 2001

《水》 STREAM / 450×1250mm / 墨、銀泥、和紙 Sumi,Silver Paint on Paper / 2001

《静》 CALM / 900×1735mm / 墨、和紙 Sumi on Paper / 1973

《静》 CALM / 900×1735mm / 墨、和紙 Sumi on Paper / 1973