桃紅館
桃紅館は、1階に展示室と2階に篠田桃紅のアトリエを忠実に再現したスペースを備えた篠田桃紅に関する美術館として、2024年3月28日に開館しました。
世界に誇る篠田桃紅コレクションを所蔵している場所であり、岐阜を”心のふるさと”という想いを持っていた篠田桃紅の名が付いた地「桃紅大地」に建つ美術館の外観には、桃紅の筆による文字「桃紅大地」の作品をベースに、墨と銀を意匠にとりいれています。墨は黒色の天然石外装材を、銀はバイブレーション研磨したステンレスパネルを使用して鈍く輝く銀地(和紙の上に貼られた銀箔)をイメージし、抽象的でモダン、キレのあるデザインとしました。また、“箱を重ね並べたよう”に見える外観は、面と面が重なり合う桃紅作品を思わせます。
年3~4回の企画展示とともに、桃紅がいちばん多くの時間をすごした思索の場であるアトリエを忠実に再現し、桃紅が重ねた創作の時間と空間を感じていただき、より一層充実した鑑賞ができる場となっています。
篠田桃紅プロフィール
1913年、中国・大連に生まれる。翌年、父の転勤で東京に戻る。
5歳の時、父の手ほどきで初めて墨と筆に触れ、以後独学で書を極める。第二次世界大戦後、文字を解体し、墨で抽象作品を描き始める。
1956年渡米。ニューヨークを拠点にボストン、シカゴ、パリ、シンシナティ他で個展を開催。58年に帰国して後は、壁画や壁書、レリーフといった建築に関わる仕事や、東京・芝にある増上寺大本堂の襖絵などの大作を制作。その一方で、リトグラフや装丁、題字、随筆を手掛けるなど、活動は多岐にわたった。1970年に、東京・南青山に転居しアトリエを構える。
1979年、初の随筆集『墨いろ』で第27回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
2005年には、『ニューズウィーク日本版』の「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれた。また同年、5メートルを超える絵画を制作するなど、水墨による新しい抽象表現を探求し続け、晩年までその筆勢はとどまることがなかった。
2021年3月逝去
コレクション紹介
岐阜現代美術館では1000点を超す篠田桃紅作品を所蔵しております。
コレクションの一部を解説付きでご紹介いたします。
桃紅李白 2004年
この四曲一隻の屏風の題材は、『禅林句集』に収められる一節「桃紅李白薔薇紫」(桃は紅く、李は白く、バラは紫)である。「桃紅」という雅号はこの句から採られている。漢詩をたしなむ父が、3月生まれの桃紅につけたものである。本作品は、右側二曲に銀泥の細い線が李の白として、左側二曲には桃の紅が朱の面であしらわれている。「桃紅李白薔薇紫」には、「問起春風總不知」(これを春風に問えども総に知らず)が続く。春の風は一様に吹くが、花の色はそれぞれさまざまである。燃える紅色の桃の花や、はかない李の白い花が、それぞれの姿で咲き誇るように、自身の美学を貫き、水墨を深めてきた桃紅の生き方に重なるようである。
おもい 2001年
画面中央に静かに佇む凛とした細い墨線。それは、文字以前のかたちへと解いた「月」のひと文字である。桃紅は「文字のおこりである古代人の造った象形の、みずみずしさ、強さ、直截さに、だんだん心惹かれるようになっていた」とエッセイに記しているが、70年代から象形文字をベースにしたかたちが作品に登場するようになる。とりわけ「月」を解いた抽象のかたちは、桃紅の重要なモチーフである。
行人 1965年
1968年、ニューヨークのベティ・パーソンズ・ギャラリーでの個展に出品された1枚。桃紅は海外での個展も多数行い、なかでもこの画廊における個展で海外での評価を確固たるものとした。1960年代には、作品は大型化し、文字を解体したしなやかで自由奔放なストロークや東洋的な余白の美は影を潜め、太い線や面で構成された西洋の絵画構図の作品を制作した。
音 1950-54年
同時代の前衛書家たちが書と絵画のはざまで悩むなか、桃紅は、書家としてかな文字を手掛けながら、しかし文字から離れ、抽象造形を手探りし始めていた。そして書壇を離れて1956年に渡米。
この作品は、渡米前の桃紅の模索と試行錯誤を示す貴重な一枚である。文字のかたちが自身にとって借り物であることは、自律的な表現を目指す桃紅にとって次第に許しがたくなり、書家でありながらも、当時すでに純粋な造形を主体としていたことがうかがえる。
しらつゆ 1956年以前
文字のかたちを引き伸ばしたり、歪めたりといったアレンジを行うことで、自身の造形表現を追求していった過程でうまれた作品。「しらつゆ」の文字が書かれている点が書らしさをとどめている。前衛書のいわゆる「読めない書」が注目を集めていた時代に制作された。
グッズ
下記グッズは現在桃紅館内のみにてお買い求め頂けます。